2025年03月02日 朝の礼拝「むなしくない言葉に生きる」

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2025年03月02日 朝の礼拝「むなしくない言葉に生きる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
15:3 そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。
15:5 それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、
15:6 父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
15:7 偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 15章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:エルサレムから来た調査団
 今日の箇所では、エルサレム来たから律法学者やファリサイ派の人々が主イエスのもとにやって来ました。彼らは言ってみれば、エルサレムのユダヤ人指導者たちが遣わした調査団です。そこで彼らは、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わない姿を見つけ、そのことで師である主イエスを咎めたのです。
 今、私たちがご飯の前に手を洗うのは衛生面の理由からですが、律法学者やファリサイ派は宗教的な理由からでした。例えば市場にに置いてある食べ物は、自分が来る前に異邦人が触れたものであったかも知れません。そのように知らないうちに身が汚れているといけないので、律法学者やファリサイ派など、律法に厳格なユダヤ人たちは、家に帰ったら手を洗い清めるという習慣を守っていたのです。
 ただし、旧約聖書の中には「食事の前に手を洗わなければならない」という掟はありません。
奇しくも律法学者とファリサイ派自身が「昔の人の言い伝え」と述べているように、これは人間によって作られ、受け継がれてきた「口伝律法」と呼ばれる教えの一つです。

Ⅱ:神の掟と昔の人の言い伝え
 そこで彼らが「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか」と主イエスに問いただすと、主イエスは逆に「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」質問を返されました。そしてその実例として、十戒の第五戒「父と母を敬え」というを取り挙げています。
 第五戒の「父と母を敬え」という戒めには「年老いた両親を経済的に支え養う」という経済的な義務も含まれています。しかし、ある息子が父親との折り合いが悪くて、自分は父親を養うという律法の義務を果たしたくないと考えた場合、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物(コルバン)にする」と宣言すれば、彼は財産を両親のために使わなくても許されたのです。そして実際にこのコルバンの誓いを、自分の親を養う義務を免れるための法の抜け道として悪用する者がいたのです。
 そこで主イエスは、律法学者やファリサイ派がコルバンという「自分たちの言い伝え」を守るように教えた結果、肝心の「父と母を敬え」という神の掟が無効にされているではないかと批判しておられるのです。更に7節では、彼らを「偽善者」と呼び、イザヤ書に書かれているのは、正しくあなた方のことだと指摘しています。しかし主イエスが「偽善者」と非難された人々は、今の私たちよりも遥かに真面目に聖い生活を送ることを追い求めていました。そして彼らの問題は、真面目さにあるのではなく、律法に込められている神の心を捕えそこなっていたことにあるのです。 
 
Ⅲ:神の心
 「供え物(コルバン)」の問題は、「父と母を敬え」という人間に対する義務と、「神への誓いを果たす」という神に対する義務のどちらを大切にするべきかという問いです。律法学者たちは前者よりも後者の方が優先されると考えたのです。そしてこの彼らの理解は、一見正しいようにも思えます。
 しかし主イエスは別の箇所で、律法は「心を尽くして神を愛せよ」と「隣人を自分自身のように愛せよ」の二つに要約されると教えています。ですからこの二つの命令は相反する戒めではなく、両立し、調和する戒めなのです。またガラテヤ5章14節で使徒パウロは、律法の精神はむしろ「隣人を愛せよ」という戒めにこそ本質があるとさえ教えているのです。
 そうであれば、神の戒めは、それを守るために隣人愛を犠牲にしなければならないものであるはずがありません。むしろ神の言葉は隣人を愛するということによってこそ全うされるのです。
 律法学者たちは、この神が最も大切にしてほしいと願っておられる「隣人を自分自身のように愛せよ」という戒めをないがしろにして、自分たちが生み出した言い伝えに従って生きていたのです。

Ⅳ:変わらない神の言葉
 教会にも様々な規則やルールがあり、長い間受け継がれてきた伝統があります。「伝統」という言葉は(特に若い人にとって)、自分たちの自由な発想や行動を制限するものとして敬遠されがちです。しかし、たとえどんなに時代や社会が移り変わり、人間の価値観が変わったとしても、聖書の「隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めと、そこに現れる神の心は古びることはありません。何百年、何千年経とうと、どんな時代の、どんな社会においても、「隣人を自分自身のように愛せよ」という言葉は、人間の心に新鮮な感動を与え、人間の生き方や存在を新しく造り変える力があります。 なぜならこの戒めは、単に人間の社会道徳や倫理感から生まれた「人間の言い伝え」ではないからです。それは今も生きておられる神の心が示されている「神の言葉」だからです。その神御自身が一人一人をご自分のように深く愛しておられ、私たちが神のもとに立ち帰るためになら、御子をさえ惜しまずに与えてくださる愛なる御方だからです。
 人間の考え出した知恵や言い伝えは、たとえそれがどれ程素晴らしいものだったとしても、やがては古びていき、滅びていくものです。しかし、神の言葉は永遠です。その言葉は決して虚しく終わることはありません。なぜならその言葉を語られた神が、かつても今も後も、永遠に生きておられるお方だからです。

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