モーセはヘブライ人でありながら、エジプトの王族の一員として育てられるという複雑な環境の中で成長していきます。モーセ自身、自分の出生について乳母(実の母親)から聞いて知っていたのだと思われます。
実の家族を含むヘブライ人たちが奴隷として苦しめられている一方で、自分は王宮にいて裕福な暮らしをしている。そのことにモーセが複雑な思いや葛藤を抱いていたとしても不思議ではありません。彼は何とかして同胞を苦しみから救いたいという思いを持っていたかも知れませんし、彼らを苦しめている側の王家にいるという事に後ろめたさがあったのかも知れません。
そこである日、事件が起こります。モーセは出掛けて行った先で、一人のヘブライ人がエジプト人によって殴られている(撃ち殺されようとしている)という場面に遭遇したのです。そこでモーセは、辺りを見廻して誰もいないのを確かめると、このエジプト人に襲い掛かって彼を打ち殺してしまうのです。そしてその死体を誰かに見つからないように砂に埋めて隠しておくという、まるで推理小説の犯人のような行動をとるのです。
そして何食わぬ顔をして王宮へと戻ったモーセは、次の日ももう一度町へ出掛けて行きますが、そこで今度は同じヘブライ人同士が争っている場面に遭遇します。そこでモーセは、今度は彼らの間に入って、その争いを仲裁しようとします。ところが、モーセにとがめられたヘブライ人は「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか。」と言い返したのです。モーセが持っていた正義感や仲間意識は、このたった一人のヘブライ人を納得させることすら出来ませんでした。やがてモーセが犯した殺人は、エジプトのファラオの耳にも届きました。
モーセはこの時、自分はもうエジプトの王族としての暮らしに戻ることも、ヘブライ人の仲間たちのところに帰ることも出来ないと思ったことでしょう。そこでエジプトから逃げ出したモーセは、ミディアン人と呼ばれる遊牧民たちが住む地域にたどり着きました。そこでモーセは、羊飼いの娘たちを助けたことから、その一人を妻として与えられ、羊飼いとして生活をするようになりました。
モーセは、このミディアンの地に根を下ろして生きて行こうと決心して、そこで妻を得て、子どもも与えられて、このミディアン族の一員として平和な生活を手に入れました。しかしそれでもなお、彼の心の中には「自分はこの土地では寄留者、外国人だ」という思いが消えなかったのです(22節)。
モーセは、かつて自らが犯した失敗と挫折をずっと引き摺りながら、「自分が本来いるべき場所はここではない。自分が本当に喜びと平安を得ることが出来る場所は他にある」という思いを捨て去る事が出来なかったのです。
人生の折り返し地点に立った三十台後半から五十代くらいの人が、それまでの生き方や自分自身に対する自信を失ったり、悩んだりする心理的な葛藤を「中年の危機」と呼びます。自分が本当にいるべき場所にいるという安心感がない、本当に為すべき使命に生きているという充実感を持てない。モーセもそんな風に「自分の人生はこれで良かったのか」という「中年の危機」の葛藤を抱えながら、自分の息子に「寄留者」という名前を付けたのではないでしょうか。自分が犯した失敗と挫折を引きずって、満されない思いを抱えながら「でも自分はもうこのまま羊飼いとして一生を終えていくのだろう」と半ば人生を諦めてしまっていたのではないでしょうか。
そしてここで唐突に、23節から25節で、イスラエルの民の苦しみが、再び語られる事になります。そしてその彼らの助けを求める叫び声が「神に届いた」と書かれています。そしてこの言葉を挟んで3章で再びモーセの人生にスポットが当てられて行く事になります。それは、失意と諦めの中にあるあのモーセという人物の人生もまた、その神の救いの御計画の中で導かれている事を示すためです。
かつてモーセが持っていた使命感や正義は、民を取り囲んでいる現実を変える事が出来ませんでした。そして自分の過ちから逃れてその先に得た家族との暮らしも、モーセに本当の喜びや満足を与えることは出来ませんでした。しかし今、モーセ自身のちっぽけな正義感や自己満足のためではない、真の神の救いの御計画の中で、その神から与えられた使命に生きる第二の人生が始まろうとしているのです。
そして、私たちが神の御子である主イエス・キリストと出会う時に、これから長い人生を歩んで行くであろう若い方も、人生の終盤に差し掛かっている方も、誰であろうとイエスとこの人生の再出発の時が訪れるのです。過去の過ちや挫折から解放されて、自分自身に残り続ける弱さや恐れを乗り越えて、人生の苦しみや試練、人々の無理解の中にあっても決して希望を失うことのない人生へと、今日ここから再び歩みだしていくのです。