2024年09月22日 朝の礼拝「荒れ野に神はおられるか」

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2024年09月22日 朝の礼拝「荒れ野に神はおられるか」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 17章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
17:2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
17:4 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
17:5 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 17章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

Ⅰ:人生の荒野で
 エジプトの奴隷から解放されて、ようやく自由を手にすることが出来たイスラエルの民は、しかし15章では、飲み水を得ることが出来ずに、三日の間荒れ野をさ迷い、続く前回の16章では、今度は食べ物のことで、民がモーセとアロンに不平を述べ立てたことが報告されています。そして、それらの民のつぶやきに対して、神は苦い水を甘い水に変え、また天からマナと呼ばれるパンを降らせて、彼らの飢えや渇きを癒されました。ところが、今日の17章の前半で再び民は、荒れ野で飲み水を得ることが出来ないという試練に遭うことになります。 
 そこで、喉の渇きを覚えた民は、再びモーセに対して不平を述べて、「我々に飲み水を与えよ」と要求したのです。
 私たちもまた、人生において試練に襲われて、何とかそれを乗り越えたと思った途端、またすぐに次の試練が襲い掛かってくるということがあります。そんな時に「神はなぜこんなにも私を苦しめられるのか」と怒りを覚えたとしても、それを「不信仰」と言って裁くことが出来るでしょうか。
 そして聖書もまた、私たちが神に対して「神よ、なぜですか」と問い掛けること自体を、罪であるとは言いません。むしろ聖書は、私たちが苦しみや悩みの中で、「神よ、なぜですか」と真剣に問いかけて、その答えを求めていく信仰を好意的に受け止めておられます。

Ⅱ:主を試すとは
 それでは、私たちが「主を試す」とは、一体どういう事なのでしょうか。今朝の新約朗読でお読みしたマタイ福音書で主イエスは、荒れ野での四十日間の断食を終えられた後、悪魔の誘惑を受けられました。第一の誘惑を退けられた主イエスに対して、悪魔は、「あなたがそれほど“神に信頼している”のなら、今この神殿から飛び降りてみなさい。神はきっと、そのあなたの信頼に応えて、あなたが地面に落ちて死ぬことが無いように支えてくださるでしょう」と言葉巧みにを誘惑します。それに対して主イエスは、申命記6章16節の御言葉を用いて「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えて、その悪魔の要求を退けられましたが、この御言葉は、今日の出エジプト記17章の出来事を指しているのです。
 イスラエルの民は、神が自分たちに食べ物や飲み水を十分に与えてくれるなら神として認める、しかしもしそれが出来ないのなら、自分たちはエジプトのファラオを神とすると主張しました。 「主を試す」とはそのように、自分たちが神よりも上に立って、自分たちの願いや利益のために神に奉仕させ、利用しようとする態度のことです。この「主を試す」という言葉を別の表現で言い換えるなら、それは目に見える「しるし」を求めることである、と言い換えることが出来ます。
 福音書においては、特に律法学者やファリサイ派の人々が、主イエスに対して「しるし」と求めました。しかし主イエスは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と答えて、彼らが求めるようなしるしは最後まで与えられませんでした。
 
Ⅲ:目に見えるしるしを求める時代
 そして、そのように主を試みようとする人間の罪の極みが、十字架において主イエスに投げかけられた「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」という言葉です。
 しかし、この時もキリストは、彼らが求めるようなしるしはお与えになりませんでした。キリストは最後まで黙って、彼らの侮辱の言葉をその身に受けられ、十字架に架かり続けてくださいました。実は、その十字架のキリストの姿にこそ、このお方が真の救い主であり、真の神の御子であるということがはっきりと示されていたのですが、しかし人々はその目の前にある真のしるしに気が付かずに、自分たちが望むしるし、目に見えるしるしを求めたのです。
 そこには、出エジプトの時代から、新約聖書の時代、そして現代に生きる私たちに至るまで、人間がいつも抱えている、「主を試そうとする」罪の性質が、はっきりと現れています。

Ⅳ:十字架のしるしを見上げて
 しかし、神が私たちを約束の場所へと導かれる時に、それは必ずしも最短ルートであったり、私たちが通りやすい楽な道であるとは限りません。時には神ご自身が、私たちを荒れ野へと導かれることがあるのです。しかし、たとえそこが、希望のない、救いの見えない荒れ野であったとしても、そこに神はおられ、命の水を注ぎだして、私たちの魂の渇きを癒してくださる、「ホレブの岩」としてくださるのです。
 その事の確かなしるしが、キリストの十字架という出来事であり、この十字架に勝るしるしは、私たちには与えられていません。人生の荒れ野に迷い込む時、私たちは今日のイスラエルの民のように「主を試そうとする」のではなく、このキリストの十字架を見上げて、神のみ前に遜って、真剣に、全身全霊を持って神の御心を求め、それに従っていく者でありたいと願います。
 そしてそのように、人生の荒れ野においてなお主に信頼し、主の皆を呼び求める者の声に、神は必ず答えてくださり、その荒れ野に泉のように希望を湧き出させてくださるのです。

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