2022年10月23日 朝の礼拝「わたしはあなたと共にいる」

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2022年10月23日 朝の礼拝「わたしはあなたと共にいる」

日付
説教
堂所大嗣 牧師
聖書
出エジプト記 3章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
出エジプト記 3章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝お読みした御言葉は、ここから4章前半まで続く「モーセの召命」と呼ばれる場面の導入にあたります。失意のどん底にあるモーセが、今朝の箇所で神様と出会い、神様からの召命、つまり神様のために働くという使命を与えられて、もう一度新しい人生の再出発へと踏み出す事になるのです。
 モーセ自身はこの時、自分から神様に出会いたいと願ったわけではなく、普段どおりに羊飼いの仕事をしていただけでした。ですからこの神との出会いは、モーセの側から見れば「たまたま」神と出会ってしまったと言えなくもありません。
 教会にやって来る人の中には、「神様を信じたい・知りたい」と熱心に求めて来られる方もお見えになる一方で、友達に誘われて「たまたま」ふらっと教会に立ち寄ったという人も少なくありません。最初に教会を訪れる理由は人ぞれぞれです。そしてそれがどんな理由であろうとそれは構わないのです。問題はそこで私たちが、このモーセのように「真の神様との出会いを経験したかどうか」という事です。

  そこでこの時のモーセと神様との出会いは、燃える柴の炎の中からモーセに語り掛ける神様の「言葉」から始まりました。神様はその語り掛ける言葉において私たちと出会われます。すなわち神様との出会いは、この礼拝に置いて語られる聖書の御言葉を通して、私たちが神様の「御言葉」を聞くという事において起こるのです。それは単に聖書の言葉の文章を読むとか、ただここに座って説教の言葉を聞いているという事ではありません。聖書の御言葉を、大昔の誰かに語り掛けた言葉ではなく、知らないどこかの誰かに呼び掛けた言葉でもなく、生ける真の神様がこの私に「誰誰よ」と一人一人の名前を呼んで語り掛けておられる言葉として聴くことが、御言葉において私たちが「神様と出会う」という事です。モーセもまた、ここで初めて神様と人格的な関係を結ぶという出会いを経験するのです。

 しかしこの時のモーセにとっては、かつてのエジプトでの生活も、そこで苦しめられている仲間たちの苦しみも、もはや今の自分の生活とは関りのない過去のものとなっていました。ですからその民を救うために自分が働くなどという思いは、とうに彼の中からは失われていたでしょう。そこでモーセはこの命令に対して「わたしは何者でしょう」と拒否の姿勢を示します。
モーセは謙遜してこう言っているのではありません。実際にモーセは、過去に失敗したのです。その過去の経験から、自分にはイスラエルの民を導いてエジプトから連れ出せるような力はないという事を嫌と言うほど思い知ったのです。ですから「自分にはそんな事は到底できません」と述べて神様の召しに従うことを拒んだのです。

 そしてこの時、神様の呼び掛けを拒んだモーセの気持ちは、私たちにもよくわかるのではないでしょうか。「私は自分自身が罪から離れることや、信仰者として相応しく生きる事が出来ずに日々、悩み苦しんでいるのに、その私が他の誰かのために、教会のために働くことなど出来るはずがありません。自分は与えられた小さな信仰がなくならないように信仰生活を守っていくだけで精一杯です。」これが私たちの正直な気持ちではないでしょうか。
 しかし、そんな事は神様は百も承知です。神様はこの時も、モーセがかつて大きな失敗と挫折を味わったことをご承知の上で、そのモーセを再び新しい働きへと召して、彼を再起させようとされるのです。それはモーセにはまだ隠された潜在能力があるのを見抜いたからでも、彼の失敗の経験が役に立つと判断したからでもありません。モーセには出来ないのに、彼は何の力も実績も持っていないのに、そのモーセを「私の救いの御業のために共に働きなさい」と呼び出すために、今彼と出会ってくださったのです。そして人生の目的を失って羊飼いとしてひっそりと生涯を終えるはずのモーセに、新しい生きる目的、神のために働くという使命をお与えになられたのです。それが神様の選び、召しであり、それは神様の私たちに対する憐みであり恵みなのです。この神様の選びと恵みによって、私たちの能力や過去の失敗や挫折の経験の限界を打ち破って、私たちがその働きを成し遂げる事が出来るように道を備えてくださるのです。
 
 私たちは若く未経験であるかも知れません。あるいは反対に年を取って、自分が誰かの助けを受けなければならない状態であるかも知れません。これまでに大きな失敗や挫折を繰り返してきて、世の中から役に立たないものとして見放された経験があるかも知れません。そして私たち自身も、自分の力や能力に自信を失っているかも知れません。
 しかしこの業は、私たちが自分の力で成し遂げるのではなく、神様御自身がその全能の力をもって行われる救いの御業なのです。そしてこの私があなたと必ず共にいるのだから、たとえあなた自身は無力であったとしても、私がそれを成し遂げる」この神様の約束を信じて、その神様の呼び掛けに答える時に私たちの人生にも新しい変化が起きるのです。 

 神様は世の終わりの時に一人でも多くの人が救われて、神の国に入ることが出来るように、そのために「あなたも私と共に働いて欲しい」と呼び掛けてくださるのです。
 そしてそのために、私たち一人一人に相応しい働きを与えてくださって、私たちに私たちに生きる目的、生きる使命を与えていてくださるのです。そしてその働きに私たちを召し出すために、今朝も私たち一人一人の名前を呼んで、私たちと出会ってくださるのです。
 そして、モーセがやがてシナイ山で神様と顔と顔を合わせて語り合うようになったように、イエス様が再び私たちの元に来られるその日には、私たちもまた完成した神の御国で、その愛するイエス様と顔と顔を会わせて出会う事が出来るのです。
 その日が来るのを信じて私たちは、日々その神の救いの御業のために神様と共に働く事が出来る恵みを今も頂いているのです。

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