千城台教会 季報『希望(のぞみ)』より (16件)

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季報『希望(のぞみ)』

季報『希望(のぞみ)』より (16件)

年4回発行の教会季報「希望(のぞみ)」に掲載された市川康則牧師のメッセージを公開しています。

千城台教会が年4回出している季報「希望(のぞみ)」。その中から市川康則牧師が寄稿されたメッセージをホームページでも公開しています。

メッセージ 一覧

望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する ― 2024年の教会標語 ―

2024年度教会標語

ヘブライ人への手紙について

季報『希望(のぞみ)』第24号が出ました。この号では、7月30日より夕礼拝で講解され始めたヘブライ人への手紙(新約聖書)の特徴を概説されています。

信仰告白をして― これまで・今・これから ―

季報『希望(のぞみ)』の今年の第2号(通算第23号)が出ました。幼児洗礼を受けていた一人の青年が昨年の復活節(イースター)に信仰告白をして、言わば大人の教会員になりました。その後の1年を振り返って語ってもらいました。

主の山に備えあり(年間標語)

当千城台教会の2023年度の標語を、今年最初の季報『希望(のぞみ)』に載せました。

マタイによる福音書について

季報『希望(のぞみ)』第21号が出ましたので、掲載します。6月半ば以来、朝の礼拝ではマタイによる福音書から御言葉が語られていますが、御言葉の説教が少しでも身近に受け取目られることを願い、この福音書の概説が掲載されています。

執事に任職され、就職して

今年3月13日に執事(教会役員の一種)に任じられ、就いた兄弟の証しです。

キリストにあって互いに仕え合う

2022年度の教会の『年報』に載せられた文書を要約して、季報『希望』(のぞみ)にも載せました。多くの方々にお読みいただければ幸いです。今年の教会標語と展望についての要旨です。

季報『希望』第18号

季報『希望』第18号が出ました。一人の大学生に信仰告白の証(あかし)を寄せてもらいました。彼は幼児洗礼を受けていましたが、昨年の秋に、教会の礼拝の場で神様と教会員の前で、イエス・キリストを自分の救い主、また主(しゅ)として受け入れることを誓約し、告白しました。要するにクリスチャンになった訳です。読者の皆様への良き参考また刺激となれば幸いです。

ポストコロナの教会

当教会の50代男性の証しと思いについての寄稿です。その後、試練の意味・意義について、牧師の一言です。

新型コロナウイルス感染の教訓

季報『希望』第16号の載せられた市川牧師の短文で、今大問題になっている新型コロナウイルス感染に関するものです。

わたしの入信―証―

季報『希望』第16号が出ました。去る6月21日に千城台教会に加入された一人の姉妹の入信の証(どのようにしてキリスト教信仰に入ったかについての証言)が寄せられています。

“インマヌエル”の実現としてのペンテコステ

季報『希望』第15号を載せました。ペンテコステ(五旬節/聖霊降臨記念日)について、特に聖霊なる神様のお働くの特徴について記されています。キリストの復活後(その日から数えて)50日目に、聖霊が地上に―人々に―降られ、キリストの死と復活に基づく救いを現実化してくださいました。それは2,000年後の今も、世の終わりの完成に向って、確実に進んで行きます。わたしたちがキリストを信じ続けられるのも、日々殷賑を守れれ手生き続けることができるのも、聖霊の恵みなのです。復活のキリストは―神様は―今、聖霊のお働きを通して私たちと共にいて下さるのです。

主を礼拝することは私たちの力の源

季報『希望』第14号です。今年(主の2020年)の教会標語「主を礼拝することは私たちの力の源」の解説です。礼拝が本当にそうであることを覚えたいと思います。

信仰は思い込み?洗脳?

「信仰を持つということは、ただ自分でそう思い込むだけのことではないのでしょうか。悪くすれば、洗脳されることと同じではないでしょうか。」このような質問が投書(質問)箱にありました。今回はこれを取り上げます。

キリストの復活―事実? 偽証? 文学的表現?―

教会の質問(投書)箱に寄せられた問です――聖書にはキリストが死から復活したと教えられていますが、そんなことが本当にあり得るのですか。蘇生した、弟子が嘘を言っている、幻影を見た、死体を盗み出した、あるいは、出来事自体ではなく何かのメッセージを発信するために、復活のような文学的表現を使ったというのなら、分かりますが、文字通りの意味なら、私には復活などとうてい信じられません。

愛はすべてを忍び、信じ、望み、耐える

2019年の年間教会標語は、コリントの信徒への手紙 一(新約聖書)13章7節に基づいた「愛はすべてを忍び、信じ、望み、耐える」です。主イエスご自身が真の人間として神の御前にこのように生き抜かれました。私たちもキリストに導かれて、少しでもこのように歩みたいと願います。